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【2026/5/24】 「聖霊の働き」 使徒2:1−11 本日はペンテコステ礼拝です。 聖霊が降った時のことを使徒言行録はこのように記しています。 聖霊についてイエス様が教えてくださったことを思い起こしてみましょう。 |
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【2026/5/10】「真理の霊」 ヨハネ16:12−14、ロマ8:22−27 本日は、「母の日」です。皆さま、お一人お一人にお母さんとの思い出がおありかと思います。今、自分がここにいるのは、お父さんとお母さんがいたからであり、お母さんのお腹の中から生まれて保護者や養育者によって育てていただいたからであります。今日は各人のお母さんに感謝するとともに、お母さんを与えてくださった神さまに感謝したいと思います。 「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」 |
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【2026/4/5】「キリストの復活」 ヨハネ20:1−18 イースターおめでとうございます。昨日は雨がたくさん降りましたが、今日はイエス様の復活をみんなでお祝いするのにふさわしい良いお天気ですね。 いてもたってもいられないとき、なかなか眠れなかったり、眠れたとしても、いつもより早く目が覚めてしまうものです。マグダラのマリアもそうでした。十字架にかけられて死なれたイエス様のお墓に行きたくてまだ暗いうちに家を出たのです。マタイ、マルコ、ルカでは、マグダラのマリアと婦人たちがイエス様のご遺体に防腐処置をするために墓に行ったと書かれていますが、ヨハネ福音書にはマグダラのマリアの名前だけが記され、なぜ彼女がお墓に行ったのかは書かれていません。 マリアは、声をかけたイエス様を園丁だと思って「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と言いました。このマリアの言葉から、イエス・キリストが復活されたことを、ユダヤ教側は、初期の古文書、文献資料において、園丁か誰かがご遺体を隠したということを流布していたのかもしれないと思われます。当時のローマ側の伝承、歴史資料にも、イエスの弟子たちが盗んだ、隠したとい記録が残されているそうです。それに対してヨハネ福音書は、マリアの「どこに置かれているのか、わたしにはわかりませんと」という正直に答えを皆に伝えていることになります。 イエス様を葬ったニコデモが、かつて密かにイエス様のところにやってきて「神の国に入るのにはどうしたらいいか」と尋ねたとき、イエス様は「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と答えられました。それは、人は、新たに生まれなければ、信仰の領域のことはわからないということです。 |
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【2026/3/22】「人に仕えるために」 マルコ10:32-45 聖書を読んでいて、親しみを感じるのは、福音書に登場するイエス様に特別に選ばれた12人の弟子たちがごく普通の人間であるということではないでしょうか。イエス様といつも一緒にいた12弟子みんなが人格者で、どのようなことにもイエス様の弟子として神の御心にそって対処していく優等生ではないということです。聖書は弟子たちのありのままの姿を描き、そんな弟子たち一人ひとりの個性をイエス様が愛され、尊重し、その人を豊かに用いられているところに私たちは自分自身を重ね、イエス様に従って生きて行きたいと願う力が与えられるのではないかと思います。 |
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【2026/2/15】「神を呼ぶ」 ヨナ書1章1節−2章1節 ヨナ書は、私が大好きな聖書の物語の一つです。なぜ大好きかというと、神さまの深くて広い愛が描かれているからです。預言者ヨナは歴史的人物で、アミタイの子で、列王記下14:25にイスラエルの王ヤロブアム2世の預言者で王の助言者であったことが記されていますが、この物語は歴史的な記述というよりは、たとえ話、教訓的な物語と考えられています。 |
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【2026/2/1】「神秘としての知恵」 マルコ4:1-9、箴言2:1-9 「種蒔き」は、農業生活における重要な行事です。これによって私たちは生きるための糧をいただきます。そして何事も種蒔きをしなければ始まりません。いくら良い土地があっても、種を蒔かないでは芽が出てきません。種を蒔いて初めて芽が出て、成長するものだからです。パレスチナでは、秋の雨が降ってから後、11月中旬から1月初めにかけて種蒔きを行うようです。まず大麦の種が蒔かれ、それから小麦の種が蒔かれると聞いています。聖書の時代には農耕技術が発達しておらず、手で畑一面に蒔き散らし、そのあとで耕して種に土をかぶせたようです。ミレーの種蒔く人の絵は有名ですが、手を横に振り広げるようにして種を蒔いている様子が描かれていますように、あのような仕方で蒔かれたのでしょう。バークレーによりますと、手で蒔く以外にもロバの後ろに穴のあいた袋をつないで種を蒔いたりもしたようであります。 イエス様は、譬えを用いて人々に神の国の福音を語られましたが、今回は、皆がよく知っている「種を蒔く人」の譬えを語られました。 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。」 種蒔きは豊かな実りを期待して良い実がなりますようにと祈りを込めてなされるものでありますが、しかし蒔いた種が必ずしも良い土地にだけ落ちるとは限りません。蒔いている間に、ある種は道端に落ちることもあります。当時は細長い畑で、境には人が通る道ができていましたので「道端」とはそのことであろうと思われます。道端は人が通るところですから当然人にふみつけられる可能性があります。イエス様はその踏みつけられた種を鳥が食べてしまったと言われました。「食べてしまった」とは食べ尽くす、という言語が用いられて、一粒も残されていないことを表しています。 「ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。」 石だらけで土の少ないところに落ちた種はすぐに芽を出しますが、日が照るとすぐ温度があがり、芽を出すが水分や養分を得られないので枯れてしまったといのです。 「ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。」 「茨の間」とは、茨はまだ生えていないけれども、その土の中に茨の種が混じっていたり、根がある状態のことを指しています。これは一見良い土地に見えるけれど、茨の成長は農作物種よりも早いので、茨が押しかぶってしまったというのです。 「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」 私たちはここで、わかりにくくなってしまいます。これまでの内容は理解できます。良い土地に落ちた種が豊かに実を結ぶことも理解できます。しかし良い土地に落ちた種が、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍もの実を結ぶとなると私たちの理解を超えてしまうからです。そうなのです。神様の国における出来事は私たちの予想をはるかに超えるものなのです。 種を蒔く人が蒔いた種の成り行きは理解できるけれども、イエス様がこの譬えから何を私たちに伝えておられるのかがわからないのです。弟子たちにもわからなかった。ですから彼らはイエス様にたとえについて尋ねています。それでイエス様は、弟子たちに譬えの意味を教え、「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ」と言われました。弟子たちでさえわからなかったのですから群衆にわかるはずはなかったでしょう。 イエス様は「たとえ」を用いて天の国について語られるのですが、説明してもらわないと理解できないのです。他の人々には隠されているからです。 「たとえ」に当たるヘブライ語「マーシャール」には「謎」という意味もあるので「すべてがたとえで語られる」は、アラム語伝承の段階においては、「すべてが謎である」という意味であったかもしれない、と言われています。 しかし弟子たちには悟ることが許されているのだとイエス様は言われます。イエス様が説き明かしてくださるからです。このことを今日にあてはめて言えば、イエス様は聖霊の働きによって聖書の御言葉を説き明かしてくださっているということになります。11節からイエス様によるたとえの説明がなされるのですが、ここから種を蒔く人から土地によって種の育ち方に大きな差があることを中心に語られています。また世俗的な誘惑や迫害と戦って信仰を正しく育てるべきことが主張され、倫理的な理解が強くなっています。 種は御言葉であり、道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。 石地のものとは御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。そして茨の中に落ちたのは御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである、とこのように説明されています。天の国とはそのようなイエス様を通して働かれる神様の力であることを私たちはここから知ることができます。そして「種を蒔く人」とはイエスご自身と重なってくるのです。 譬えの説明を聞いていると、自分のことを言われているような気がする方もおられるのではないかと思いますが、誰にでもその時々によってあてはまる心の状況ではないかと思います。13節の「御言葉を喜んで受け入れる」や、「試練に遭うと身を引いてしまう」などの表現は、初代教会の経験や言葉を表していて、御言葉のために艱難や迫害が起こると離れていってしまった人たちがいたことを示しています。イエス様がこの譬えを語られた時にはキリスト教徒への迫害はまだ起こっていませんし、状況も違いますので、教会はそれをこのように独自の経験から寓喩的に解釈し始めたと考えられています。 マタイでは、これは本来「種を蒔く人」のたとえであって、それぞれの種の運命や種を受け入れた土地を問題にしているのではない。たとえのもとの意味は、農夫の蒔く種のすべてが結実するのではないこと、それにもかかわらず最後には豊かな収穫が約束されていること、したがって農夫はあきらめず農作業に励むことを述べているのであり、種を蒔く農夫が途中で失望しないように、この譬えが語られたのだとマタイの教会では解釈したのだと考えられてもいます。 マルコでは、この種を蒔く人の譬えの他に、4章26節以下に神の国のたとえとして成長する種のたとえが語られています。そこでは種自体に成長する力を持っていて、人が苦労して種を成長させるのではなく、知らぬ間に地が自ら実を結ばせる自然の成り行きを語っています。このことは、私たちのうちに働いて実を結ばせて下さるのは最初から最後まで神様のお働きであることを教えているのだと思います。そして、種を蒔く人がイエス様ご自身であられるなら、イエス様はどのような心の状態の者にも、等しく種を蒔き続けてくださっておられるということになります。 神様は、御言葉を通して私たちに知恵を与えてくださいます。それは私たちの思いを越えた神秘としての知恵であります。神秘としての知恵がわたしたちに働くように、わたしたち自身の心を良い土地になるよう耕されたいと願います。 神様はわたしたち人間が幸福になることができるよう、ご自身の知恵を与え続けてくださっています。教会を用いて人間を救いへと導く種を蒔き続けておられます。その種まきに召された私たちは、喜びをもって福音を宣べ伝えてまいりたいと願います。 |
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【2026/1/4】「我らの神」 ルカ2:41-52、ゼカリヤ8:1-8 主の2026年 新しく迎えたこの年も神さまの恵みの内を歩み行く祝された年でありますようお祈り申しあげます。 本日の聖書箇所ルカ福音書2章41節〜52節に記された物語は、少年イエスの「宮詣で」と呼ばれています。四福音書ではルカだけが少年時代のイエス様のことを記しています。 聖書にはイエス様がお生まれになられた時のことをマタイとルカが記し、その後は12歳の時のことがルカ福音書に短く記載されているだけです。イエス様が30歳になってからの公生涯のことが四福音書に記されていますが、イエス様がどのような幼少期を過ごされたのかは詳しくはわかりません。 さて、ルカ福音書にはイエス様の両親は過越祭には毎年エルサレムに巡礼にやって来たことが記されています。旧約律法では、過越、七週の祭り、仮庵の3回、成人男子が巡礼する定めでありました(申16:16)が、このころには遠隔の地の人は過越に一度だけ巡礼する習慣に変わっていたそうです。 ユダヤ人男子の成人式は13歳で、この年から律法のあらゆる義務を果たすことが求められます。それは「バル・ミツバ」(戒律の息子)と呼ばれます。女児は12歳で「バット・ミツバ」という同様の成人式を迎えるそうです。 タルムードには「5歳で宗教の勉強を始めるべし。10歳で伝承の研究に専念すべし。13歳でヤハウェの全律法を知り、その戒めを実行に移すべし。15歳で知識の完成が始まる」と記されていて、成人するその一年前から父親は息子に必要な準備教育を施すことになっていますので、イエス様が12歳になられたときに、過越祭の巡礼に参加し、エルサレムの学者たちと問答されたのは、そのためであったのでしょう。 イエス様の両親は、祭りの期間が終わって一緒に来た親戚や村の人々と共に帰路に着いたときに、イエス様が道連れの中にいるものと思い、1日分の道のりを行ってからイエス様の姿が見えないことに気づき、親類や知人の間を捜し回るのですが、そこにイエス様を見つけることができませんでした。それで捜しながらエルサレムに引き返すことになったのです。そして三日間一生懸命捜しましたが見つからず、最後に神殿に行ったら、やっと見つけることができました。その時、イエス様は学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられました。学者たちとイエス様の受け答えを聞いていた人は皆、イエス様の賢い受け答えに驚いていました。両親もそのイエス様を見て驚きました。しかしお母さんのマリアはたまりかねて「なぜこんなことをしてくれたのです。ご覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」と叱りました。このマリアの言葉に、わたしたちはイエス様がヨセフとマリアの子どもとして普通に人間として生活されていたことを知るのです。 するとイエス様は両親に「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか存じなかったのですか」とお答えになったのです。 「父の家」は、ここでは神殿ですが、父の家と訳されている言葉は、わたしの父に関わること、という字で、自分は、神に関係のあるところにいるのが、当然ではないか、と言われたことになります。 エルサレムの学者たちはイエス様の賢さに驚きましたが、ルカはここで、少年イエスの驚くべき「知恵」とは、神との関係についての認識のことだ(箴言1:7)と私たちに告げているのです。イエス様がおられたのは、律法学者が律法を教える「ソロモンの回廊」であったのではないかと推測されていますが、イエス様の知恵は、母マリアが「父上も私も、心配」したと言ったのに対して、「私が必ず自分の父の家にいること」を主張したほどの明確な神の子の意識でした。これまで人間として神の恵みに包まれてたくましく育ってきましたが、イエス様は、神の子としての自覚をお持ちだったということになります。 過越祭直前に、父親は家族に過越物語を教えることになっています。だとすると、イエス様は、将来、自分が過越の子羊として罪人の贖いのために犠牲になるのだということを自覚し、神殿において礼拝し、学ばれ、父なる神と親しく交わっておられたのだと考えられます。 イエス様は少年の頃から、罪人と共に生きられ、その罪を贖う道を神の言葉に生きる人としての歩みをすでに始めておられたのです。そして両親と共にナザレの家に戻り、両親に仕えて過ごされました。イエス様が30歳頃に神の子としての活動を始められると、もう父ヨセフの名は聖書に出てこないこと、ナザレの村人にはイエス様ご自身が大工として知られていることから、イエス様は父亡きあとの家計を支え、弟が肩代わりできるようになるまで待ち続けられたことになります。 「主はすべての点で、兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです」(ヘブル2:17) イエス様は、神の子でありつつ私たちと同じ人間となられましたので、私たちの悩みや苦しみを実際によくご存じです。私たち人間の弱さ、悩み、苦しみを同じ人間として理解し、私たちと同じ弱い人間になられ、私たちと同じような試練にあわれたので、イエス様は私たちの弱さを思いやることがおできになるのです。神の子イエス様が私たちと同じ人間になられた、このことこそが、イエス様が私たちの救い主であられることを証ししています。 イエス様は、神さまの御言葉を通して私たちと共に語り合ってくださり、私たちを父なる神のみもとに導いてくださるお方です。我らの神、主イエスはそのようなお方なのです。 私たちは神様によって生かされていますが、その生きる力は時に弱くなることがあります。そのような時、イエス様が共におられ、神さまから与えられているたくさんの御恵みを数えることによって、感謝の心が呼び覚まされ、力づけられます。マイナス面ばかりに目を注ぐのではなく、希望の光に照らされて、恵みを数えて生きる生き方へと変えられるのです。その時、我らの神のすばらしさに、賛美が自然にこみ上げてくるでしょう。 イエス様は、私たちが神さまと共に生きる、本来の人間として生きることができるために、ご自身を「命のパン」「命の水」として与え続けてくださっています。新しく迎えたこの年も、イエス様の糧に養われ、神さまの豊かな祝福とその御愛に包まれて光の中を歩みたいと願います。 |
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