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わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ。

(詩編103編1節)

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〒252-1131 神奈川県綾瀬市寺尾北2-17-44

説教要旨

これまでの礼拝説教を掲載しています

【2026/9/20】 「主の晩餐」                            マルコ14:10−26、ヘブライ9:23−28
                         小河由美子

 

 マルコによる福音書には、イエス様が用意してくださったエルサレムにある「二階の広間」で行われた過越の食事をされたときのことが記されています。
 過越の祭りとは、かつてイスラエルの民がエジプトの奴隷状態から救い出された「贖い」を記念する、最大の祭りでした。その過越の食事の準備をイエス様が事前に用意してくださっていたのです。イエス様は十字架につけられる前にどうしても弟子たちと共にこの過越の食事をされたかったのです。

 「過越の食事」は、ユダヤ人に受け継がれてきた信仰の食事です。毎年春に、焼いた子羊と、パン種の入っていないパンを苦菜を添えて食べます。子どもたちが尋ねます。「お父さん、お母さん、どうして今日はこのような食事をするの」。父母は答えます。「昔、私たちの祖先が奴隷であったエジプトから、主の御手によって導き出されたことを記念する食事なのよ」。
 旧約聖書の時代、神様が行われた最大の救いの御業は、「出エジプトの出来事」です。その時のことは出エジプト記12章に記されています。過越の祭、過越の食事は、この出エジプトにおける主の御業を記念するために、ユダヤ人が大切に受け継いできた祭り、食事です。

 この過越の食事をしていたとき、イエス様が「あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」と告げられました。弟子たちは大きな悲しみに包まれ、「まさかわたしのことでは」と互いに言い合いました。この「まさかわたしのことでは」という言葉には、彼らの動揺と、自分自身に対する不信感が表れています。イエス様のお言葉に、彼らは痛みを覚えつつ複雑な心境で食事をしていました。
 そのような中、イエス様はパンを取り、裂いて、彼らに与え、こう言われました。「取りなさい。これはわたしの体である。」
 さらに杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らに渡されました。彼らは皆、その杯から飲みました。そして言われました。
 「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」
 イエス様からこのように言われて、弟子たちは驚いたことでしょう。これまで何度か共にした過越の食事でイエス様がこのように言われたことはなかったからです。「契約の血」とは、イエス様ご自身の命のことです。イエス様は、ご自身を裏切る者、見捨てる者たちのために、ご自身の体を引き裂き、血を流されると言われたのです。すなわち十字架の上で、ご自身のお身体が裂かれ、その血が流されることによって、まったく新しい契約が結ばれるのだと言われたのです。
 イエス様は、この主の晩餐において、これから起こるご自身の十字架の死が、何を意味するかを前もって弟子たちに教えておきたかったのでしょう。そしてご自分の十字架の死は、人間の罪を赦し、神との新しい関係(新しい契約)を結ぶための自発的な命の献げ物であることを弟子たちの心に、そして私たちの心に刻み込まれたのです。

この主の晩餐で語られたイエス様の約束は、霊的な世界においてどのような意味を持っていたのかを解き明かしているのがヘブライ人への手紙です。
 旧約の時代、大祭司は一年に一度、動物の血を携えて、地上の神殿の最も奥深い場所である「至聖所」に入りました。それは自分自身と民の罪を宥めるためでした。しかし、それは毎年繰り返さなければならないものでした。なぜなら、人間の手で造られた地上の聖所や動物の血は、あくまでも「まことのものの写し」に過ぎず、罪を完全に消し去ることはできなかったからです。
 ヘブライ人への手紙の著者は語ります。キリストは、そのような人間の手で造られた地上の聖所ではなく、天の聖所、すなわち神の御前にご自身の尊い血を携えて入ってくださったのだと。
26節にはこうあります。「キリストは、世の終わりにただ一度、ご自身をいけにえとして献げて罪を滅ぼすために現れてくださいました。」
 「ただ一度」という言葉は、地上の大祭司は毎年何度も罪のためのいけにえを献げることを繰り返さなければなりませんでしたが、キリストの十字架は何度も繰り返す必要のない、完全で永遠の効力を持つ大いなる贖いであること、神の神子ご自身が流された血は過去・現在・未来のすべての罪を完全に覆い尽くす、無限の力を持つものであることを告げています。
 地上における主の晩餐で「わたしの契約の血」と言われたあの約束は、天の聖所において、人間の全歴史の罪を完全に帳消しにする「永遠の和解」として成就したのです。

 イエス様はこの契約の杯を取り、数時間後にご自分を裏切るユダを含め、自分を見捨てて逃げ去る弟子たち全員に「飲みなさい」と与えられました。それは私たちの罪や弱さ、裏切りをすべて包み込む、新しい赦しの食卓がここに開かれたことを宣言されておられることになります。
 イエス様が「完了した」と言われた十字架の御業によって、私たちはもう、罪の恐怖や罪悪感におびえながら生きる必要はなくなったのです。
 そして、キリストの「ただ一度」の御業は、十字架で死んで終わりではありませんでした。イエス・キリストは復活させられ、天に昇り、今も神の右の座で、私たちのために執りなしをしてくださっておられるからです。
 私たちが地上で弱さに泣き、罪を犯して絶望するような時に、天の聖所におられるキリストは、ご自身の傷跡を神に示しながら、「この者の罪は、わたしの血によってすでに贖われました。」と宣言してくださるのです。

 私たちが教会で守る「聖餐式」は、エルサレムでイエス様が行われた「主の晩餐」の恵みを共にいただくためのものです。これは天におられる大祭司イエスが今も私たちのために執りなしておられ、聖霊によって私たちを招いてくださっている恵みの食卓であります。
 私たちは礼拝の度に、聖餐式の度に、この地上における「主の晩餐」の約束と、天の聖所の「ただ一度の贖い」を思い起こします。イエス様の愛と赦しは、裏切りや試練の中にあっても、決して絶えることがありません。
 イエス様は、「わたしの体を受け取りなさい」「わたしの血を飲みなさい」と語り続けてくださっておられます。
 私たちが与るパンと杯は、単なる儀式ではなく、2000年前に地上で流された主の血が、天の至聖所に携えられ、今、この礼拝の場で、私たちの罪を赦すために注がれている恵みの御業の「しるし」です。
 イエス様の愛に支えられて、この新しい契約の恵みの中に生かされている喜びを味わいつつ、新しい一週間を歩みましょう。


 

【2026/8/16】 「わたしはいつもあなたと共にいる」                            創世記28章10−22節
                         小河由美子

 神様はアブラハムが75歳の時に彼を選び、彼に顕れ、アブラハムによってすべての国民が祝福されると約束されました。アブラハムが100歳の時、約束の子イサクが与えられ、イサクには妻リベカとの間に双子の男の子が与えられました。
 双子の男の子はその出生から運命づけられていました。それは、弟が兄の踵をひっぱって生まれて来たことからも象徴的に表されています。兄の名はエサウ、弟はヤコブ(かかと)と名付けられました。
 二人は双子でしたが、姿も性格も似ておらず、成長した二人の様子は、兄のエサウは毛深く、野原を駆け回り、猟をすることが好きで、弟のヤコブの肌はなめらかで、家畜の世話や、家で母親の手伝いをするのが好きでした。
 ある日、弟のヤコブが赤い豆のスープを作っていた時、兄のエサウがお腹を空かせて猟から帰ってきました。エサウは赤い豆のスープのいい匂いに誘われ、ヤコブにそのスープを食べさせてほしいと頼みました。それに対し、ヤコブは兄エサウの長子の権利と引き換えに食べても良いと答えたのです。お腹がペコペコだったエサウは、そのスープと長子の権利を弟のヤコブに譲ってしまいました。旧約聖書における「長子の権利」は、家の中で最優先される特権です。長男は家長としての権威を引き継ぎ、父の死後、家族のリーダーとなって面倒を見ることになります。財産の相続では他の兄弟の2倍を受け取る権利を持っていました。また、神が祖父アブラハムと父イサクとされた契約を受け継ぐ者とされるのです。
 ヤコブは兄と同時に生まれてきたのにちょっとの差で弟であるがために、その権利がないことを不服に思っていたのでしょうか。ヤコブはどうしても長子の権利を手にしたかったのです。
 しかしエサウは、そのような特権には無頓着であったようです。彼は打算的な性格ではなく、あまりものごとを深く考えないタイプで、人の良い大らかな性格なのだと思います。反対に、ヤコブは穏やかな人で、いろいろ考える人だったようで、お兄さんから長子の権利を得るためにはどうすれば良いのか考え、お腹を空かせたお兄さんは、きっと赤い豆のスープの方を選ぶだろうと計算していたのです。そしてヤコブが思ったとおりエサウは大事な長子の権利と赤い豆のスープをいとも簡単に交換してしまったのです。
 その後、父親のイサクが自分が年老いてきて目が見えなくなってきたこともあって、自身の父親のアブラハムから受け継いだ神の祝福を長男のエサウに引き継がせようとエサウを呼び、神さまの祝福を受け継がせる前に狩りをして自分の好きな料理を作って持ってくるように言いました。それを母親のリベカが聞き、彼女は神の祝福は弟のヤコブが受け継がなければならないと信じてヤコブにエサウのふりをして父のイサクから祝福を受けさせるようにしたのです。それはリベカが子どもたちを胎に宿した時に、神様が兄が弟に仕えるようrになると言われた言葉を覚えていたからです。
 母親からエサウになりすまして父親から神様の祝福を受けるようにと言われたヤコブですが、自分とお兄さんとは容姿がまったく違うので、もしわかったら祝福どころか呪いを受けると最初は乗り気ではありませんでしたが、リベカがヤコブの腕に毛皮を巻いて、毛深いエサウのようにし、ヤコブにエサウの服を着せ、父親の好きな料理を作って、彼をイサクの部屋に送り出したのでした。イサクは目が見えないので、声はヤコブのようだけれども、と最初はいぶかしく思うのですが、近づいてこさせて毛深い腕と野の香りのするエサウの服の匂いを嗅いで、ヤコブをエサウだと思い、ヤコブに神様の祝福を引き継がせたのでした。
 その後にエサウが料理を持って入ってくるのですが、祝福はすでにヤコブに与えられたため、エサウに与えることはできませんでした。神様の祝福はただ一人しか受け継ぐことはできなかったのです。エサウは、ヤコブが自分から長子の権利を奪い取っただけでなく、神の祝福をだまし取ったことに激怒し、父親が死んだらヤコブを殺そうと決心したのでした。そのエサウの思いを知った母親のリベカは、二人が殺し合うことのないように、イサクにヤコブにお嫁さん探しに自分の兄ラバンのところに行かせたいと願い、イサクの許しを得て、ヤコブを故郷に旅立たせたのでした。
 今日の旧約聖書はその旅の最初に、神様がヤコブに顕れてくださったときのことが描かれています。ヤコブは兄のエサウの怒りから逃れるためにベエル・シェバを立って、母の故郷であるパダン・アラムへ向かいました。たった一人の孤独な旅です。とても心細かったことでしょう。日没になり、野宿で石を枕にして眠り、不思議な夢を見ました。天から地に向かってかけられていた梯子を天使たちが上り下りしていたのです。
 そして「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」という神様の声を聴いたのです。
 ヤコブは眠りから覚めて「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」と言い、恐れおののきました。そして次の朝早く、石の枕を祈念碑として立て、その場所を神の家「ベテル」と名付け、神様が約束を守ってくださったら、十分の一を献金しますと誓いました。
 ヤコブの逃れることから始まった新しい旅立ちに際し、神様は彼に顕れてくださり、励ましてくださったのです。神様ってすごく心の広いお方だなと思います。神様の祝福をお兄さんから奪い取ったのは、お母さんの言う通りにしたからなのですが、お父さんを騙したわけですから決して良いこととは言えません。お兄さんのエサウにもとてもかわいそうなことをしました。そのヤコブを神様は「私はあなたと共にいる」と励ましてくださったのです。
 ヤコブはこの先、今度は自分が叔父のラバンに騙されて苦労することになったり、大好きだったお母さんとお母さんが生きている間に会うことができなかったということもあったりするのですが、しかし、彼の人生は神様の祝福を豊かに受けるのです。
 母親のリベカも大好きな息子ヤコブと二度と会うことができず、彼女もまた辛い経験をしたことになりますが、愛する息子に会うことはできなかったとしても、ヤコブの様子を伝え聞き、ヤコブが神様の祝福を受け、愛する妻が与えられ、元気に暮らしている便りを聞くことができたのではないかと思います。親は子どもの幸せを願うものです。ヤコブが神様に祝福された人生を送っていることを伝え聞いたリベカやイサクは大きな慰めを与えられていたのではないかと思います。
 ヤコブは長子の権利をエサウから赤い豆のスープと交換しましたが、実際には父親の財産はすべてエサウが受け継いでいます。一方、神様の祝福を受け継いだヤコブは、神様によって試練を与えられ、神の家族のリーダーにふさわしく整えられていきました。そして神様の恵みによって財産も蓄えていくことができました。
 このヤコブの物語は、ヤコブが人間的に正しい人だったから神様の祝福が与えられたのではないことを伝えています。むしろ彼はお父さんとお兄さんを騙して祝福を受け継いだ人です。しかし、ヤコブは神様の祝福を得たいと願い求めた思いは真実でありました。神様はそのヤコブの真実な思いに答えてくださいました。神様の祝福を受けたいという強い思いがなければ、いくら母親の強い勧めがあったとしても、父を騙してまで奪い取ることはしなかったでしょう。そして、神様はご自分を求める者を決して見捨てないお方であることが明らかにされています。
 ヨハネによる福音書1章51節に、イエス様が「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」と言われたことが記されています。イエス様は、このヤコブが夢で見た天から地に向かって降りてきた梯子はご自身であるとおっしゃっているのです。天から降って来て、天と地をつないでくださるお方、それがイエス様です。イエス様以外に天と地をつないでくださるお方はおられないのです。
 イエス様は言われます。「わたしは世の終わりまであなたと共にいる。」「わたしはあなたがたをけっしてみなしごにはしない」
 神が共におられる幸いをイエス様が与えてくださっていることに感謝いたしましょう。

【2026/7/19】 「主による救い」
              サムエル記上17:31-51,  マルコ9:14-29

                         小河由美子

 旧約聖書サムエル記上17章には、ダビデとゴリアトの物語が記されています。この物語は子どもたちも大好きなお話ですが、圧倒的な逆転劇として一般的にもビジネスや心理学など様々な分野で広く引用されているようです。
 この物語はイスラエルを長年苦しめていたペリシテ人が攻め上ってきて、イスラエルが重大な危機を迎えた場面から始まります。両軍はエラの谷を挟んで陣を敷きました。ペリシテの陣地から身長3メートル近い大男のゴリアトが進み出て、一騎討を挑んだのです。なにも大勢で戦う必要がない、一騎打ちをして負けた方が勝った方の奴隷となって仕えようではないかというのです。イスラエルの兵士たちはみな恐れおののき、誰も立ち向かえずにいました。ゴリアトは40日間、自分と戦うように挑発を続けました。しかしイスラエルには立ち向かう勇気のある人はだれもいませんでした。イスラエルは神の民でしたが、自国の困難に立ち向かおうとする人は現れませんでした。旧約聖書の時代の戦争は、単なる国家間の領土争いではなく、イスラエルが信じる唯一の神(ヤハウェ)と、周辺諸国が信仰する異教の神々(偶像)との霊的な戦いでした。ですからイスラエルの民が戦う戦争は「主の戦い」と呼ばれます。イスラエルの軍事力よりも「神がどのように介入するか」が強調され、勝利はイスラエルの武力によるものではなく、神が敵をその手に委ねた結果であると解釈されました。
 イスラエルの次の王となるためにサムエルから油を注がれていた少年ダビデは、兄たちに食料を届けるためにイスラエルの陣営に来て、ゴリアトの叫ぶ声を耳にしました。ダビデは兵士たちが恐れて逃げ出すのを見て驚き、だれもが怖がっていて戦おうとしないことが明らかになったとき、自分がゴリアトに立ち向かうことを申し出ました。ダビデはヤハウェを侮辱するゴリアトを許せず、王であるサウルの許可を得て、ゴリアトと一騎討をすることになりました。サウル王から渡された剣や槍などの重装備は少年には大きすぎ、また重すぎたので断り、普段から羊を守るために使っていた石だけを手にして巨人ゴリアトに向かいました。
 ゴリアトは武器を持たない少年のダビデを見て、侮り、自分の神々の名を挙げてダビデを呪い、怒りました。それに対してダビデは「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向う・・・主はお前たちを我々の手に渡される」と答え、武器の代わりに神の御名を呼びました。そしてダビデが投石器から放った石はゴリアトの額に食い込み、ゴリアトは地に倒れました。少年ダビデは石投げ紐と石一つで巨人ゴリアトに勝ったのです。
 神の名を呼ぶ、それがわたしたちの武器です。それは信仰の確信の祈りであります。信仰の祈りは困難があるとき、そのことを通して、主が何を教えようとされているのか教えてくださいと祈ることによって主の力が働かれるのだと思います。ゴリアトが倒れたのを見て、ペリシテの人々は敗走しました。このようにして神はイスラエルの大変な窮地を救ってくださったのでした。

マルコ9:14-29
 イエス様がペトロとゼベダイの子ヤコブとヨハネだけを連れて山に登ったとき、モーセとエリヤも現れてイエス様のお姿が栄光に包まれるという出来事がありました。その山からイエス様と三人の弟たちが降りてきて他の弟子たちのところに戻ったとき、ふもとにいた他の弟子たちは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論をしていました。群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶をしました。イエス様が「何を議論しているのか」とお尋ねになると、群衆の中のある者が答えました。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」
 どうやら弟子たちは悪霊に取りつかれた少年を癒すことができず群衆と議論していたようなのです。
 そのことを聞かれたイエス様は、「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れてきなさい。」と言われました。人々は息子をイエス様のところに連れて来ました。その子どもに取りついていた霊は、イエス様を見ると、すぐにその子を引きつけさせました。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹きました。イエス様は父親に息子の病気のことについてお尋ねになりました。父親は、その子が幼い時から霊に取りつかれ、霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込んだことを話し、おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けくださいと懇願しました。
 イエス様は、父親の「できるなら、助けてください」という願いに対し、「信じる者には、どんなことでもできる」と語り、祈りによって悪霊を追い出されました。
 マルコ9章19節にイエス様が「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまでわたしはあなたがたに我慢しなければならないのか」と言われたイエス様の言葉にわたしたちは少しとまどってしまうのではないでしょうか。わたしたちのイメージするイエス様と違って聞こえるからです。しかし、加藤常昭先生は、このイエス様の言葉は、イエス様の呻きであると解釈しておられます。もしわたしたちがこのように言うとしたら、自分の愛が限界にきてしまっていることを示すかと思うが、ここでイエス様が言っておられる言葉は、「愛が消えていない」「愛しているからこそ耐えている言葉で」あるとおっしゃっています。いつまでわたしはあなたがたに我慢しなければならないのか、という言葉をある国の言葉で訳すと、「いつまであなたがたを、わたしは運び続けることができるか」となり、重い荷物を運ぶのに似ていて、愛する者の痛みを自分の痛みのようにして運ぶのであり、耐えている相手に対する愛は変わらず、そこから生まれてくる呻き、そこから出てくる痛みの言葉であると解釈されています。
 子どもの病気をイエス様に癒していただきたくて連れて来たけれども、イエス様は山に行っておられて不在で、代わりに弟子たちが自分たちはイエス様から癒しの権能を与えられているから自分たちで癒すことができるだろうと思っていたのですができなかったのです。それを見ていた律法学者たちが、議論をしかけてきて、その様子を大勢の人が見て騒いでいた。イエス様はそのすべての中に人々の不信仰を御覧になったのです。
 一段落着いたところで、後から弟子たちは自分たちだけになったとき、イエス様に尋ねました。「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」。「わたしたちはどうして病気が治せなかったのでしょう」と。イエス様は「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と答えておられます。
 しかし弟子たちも祈ったはずです。でも霊は追い出せなかったのです。父親も子どもが幼い時からずっと癒やしを願って祈り続けてきたはずです。でも癒やされなかった。
 そのような現実の中で、イエス様は「信じる者には何でもできる」というご自身の信仰の中に、私たちを呼び込んでおられるのです。父親はすぐに叫びました。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。 父親は信じられない私を助けてくださいとイエス様に願いました。「信じます。信仰のないわたしを助けてください」。それは信じることの確かさを主イエス・キリストの中にだけ置くということです。
 使徒パウロは、ローマ書8章26節で「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊“自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」と神の御霊ご自身が言葉にならない呻きをもって、わたしたちを執り成してくださっていると語っています。
 主による救いとは、自分の弱さの中に留まらない、自分の思いを主に委ねることができることではないでしょうか。主が導いてくださることへの信頼、自らの不信仰を主の信仰の確かさの中に置くことができることではないかと思います。

 

【2026/6/14】 「主があなたにしてくださったこと」
                        マルコ5:1−20

                         小河由美子  
 本日は、「子どもの日・花の日」です。これはアメリカ・マサチューセッツ州の教会で子どもたちのために礼拝堂を花で飾って特別礼拝を行ったのが始まりとされています。私たちの教会も、子どもの教会で礼拝堂を花で飾り、子どもたちが神様の愛に守られて、イエス様と共に成長されることを願いました。今日は、礼拝後の報告の前に子どもたちが賛美を歌ってくれます。幼稚園では先週の水曜日に「花の日」礼拝を守り、子どもたちが教会にお花を届けてくれました。花も人間も同じように神さまから命を与えられ、愛されて育っていることに感謝し、日頃お世話になっている方々や施設にお花を届け、感謝の気持ちを伝えています。子どもも大人も、神さまに愛されて育っていることを感謝したいと思います。

 さて、本日の聖書は、イエス様一行が、ガリラヤ湖の東岸の地「ゲラサ人の地方」へたどり着いたところから始まります。ゲラサ人の地方は、「デカポリス地方」と同じ地域だと思われます。その地方では、豚がたくさん飼われていました。

 レビ記11章2−7節に「汚れたもの」と規定されている動物について記されています。それによると豚は汚れた動物とされていますので、この地方は異邦人が住む地方であったことがわかります。イエス様と弟子達は、初めて異邦人の地にやってきたのです。
 そこに、「汚れた霊に取りつかれた人」がいました。その人は墓場を住みかとしていました。住みかは、住居を指すこともありますが、そこを拠点に生活している場所のことです。町の人が彼を「足枷や鎖」でつないでも引きちぎり、「誰も彼を押さえつけることができ」ませんでした。足枷や鎖でつながれるということは、他の人に迷惑をかけないようにしたということなのでしょうか。彼は悪霊に支配されていたので、自分が望んでいることをすることができず、したくないこともせざるを得なかった状況でした。彼は石で自分の体を痛めつけていました。そうすれば悪霊が出ていくかもしれないと思ったからかもしれません。あるいは自分が自分でないわけですから、どうしようもなくてそうせざるを得なかったのかもしれません。彼は夜な夜な、山や墓場で叫び声を上げ続けていました。その悲惨な叫びを人々はどのように聞いていたのでしょうか。
 その彼のところにイエス様がやって来られたのです。汚れた霊に取り憑かれていたその人は、イエス様が来られた時、すぐに走り寄ってひれ伏し、イエス様をお迎えしました。なぜ、彼はイエス様が来られると、すぐにイエス様のもとに行くことができたのか。それは汚れた霊がイエス様が来られたのを知って、神の子が来たと言っているのを聞いたからではないかと思うのです。だから、イエス様の所へすぐに助けを求めに行くことができたのではないでしょうか。彼はずっと救いを求め続けていたのだと思います。
 イエス様は、彼の切なる願い、彼の魂の叫びに応えられ、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われました。
 ところが、汚れた霊に取りつかれた人は、「構わないでくれ、後生だから、苦しめないでほしい」とイエス様に懇願したのです。この言葉は、汚れた霊が彼に言わせたのでしょう。汚れた霊たちはイエス様の裁きを恐れたのです。イエス様が「名は何と言うのか」と尋ねると、汚れた霊は「名はレギオン。大勢だから」と名乗りました。名を知ることは、相手を知ることです。汚れた霊はイエス様を「いと高き神の子イエス」と言いました。汚れた霊には、イエス様が神の子であることがすぐにわかったのです。
 「レギオン」とは、当時の4千から6千の軍隊の一つの単位で、古代ローマの軍団の名前でもありました。その軍団のように数多くの汚れた霊がこの一人の男の人の体の中に取りついていたのです。汚れた霊の軍団に取り憑かれたこの人の苦しみはいかばかりだったでしょう。イエス様が、この人から汚れた霊の軍団を追い出される際に、汚れた霊たちはこの地域が居心地良く離れたくなかったのでしょうか、「自分たちをこの地方から追い出さないでほしい」とイエス様に願いました。それで汚れた霊は、近くの山で豚の群れが飼われていたため、その大群の中に入らせてほしいと願い、イエス様に許され、豚の大群の中に入りました。すると豚は崖から湖になだれ落ちて溺れ死んでしまいました。その出来事を目にした豚を飼っていた人たちは驚いて逃げ出し、町や里でこのことを伝えたので、その話を聞いた人々がイエス様のもとにやって来ました。彼らは、レギオンに取り憑かれていた人が服を着て、正気になって座っている姿を見ました。町の人々はこの状況を見て、恐ろしくなり、イエス様にここから出て行ってほしいと懇願したのです。イエス様がここにいたら、これから先も多くの家畜の犠牲を払わなくてはならないかもしれない、これ以上大きな損害を受けたくないと思ったのでしょうか。ゲラサの人々を悩ませていた悪霊に取りつかれた人が癒やされ、本来は人々にとって喜ばしい奇跡がなされたにもかかわらず、彼らは救い主イエス様を拒絶したのです。
 私たちは大群の豚が死んだことに心が痛みますが、しかし悪霊に憑かれた男の人の魂は悪霊から解放され、「正気」に戻されたのです。この人は救われたのです。その人はイエス様のすばらしい御業に感謝して、イエス様と一緒に宣教の旅について行きたいと願いましたが、イエス様は、この地に残って「主があなたにしてくださったこと」を宣べ伝えなさいとお命じになりました。彼はイエス様の言葉に従い、イエス様が「神の子」であり、イエス様が自分を救ってくださり、本当の自分にしてくださったことをゲラサの人々に宣べ伝えました。彼は、世界で初めての異邦人伝道者とされたのです。
 「主があなたにしてくださったこと」は何でしょうか。イエス様は、私たちを憐れみ、一人ひとりに近づいて来てくださり、ご自分と共に生きる者へと変えてくださるお方です。そして、本当の自分にならせてくださり、真の幸いを与えてくださるお方です。イエス様は、人を生かすために今も働いておられます。私たちは神さまの素晴らしさ、神さまの愛を宣べ伝えずにはいられない、そのような者へと変えられるのです。 

 

【2026/5/24】 「聖霊の働き」  使徒2:1−11
                         小河由美子  

本日はペンテコステ礼拝です。
 ペンテコステは、イエス様が父から約束されたものが送られるまで、エルサレムを離れず待っていなさいと言われていた、その約束された聖霊が降った日です。その時のことが本日の聖書箇所である使徒言行録2:1-11に記されています。
 2章1節に「五旬祭の日が来て」とありますが、五旬祭とは、ユダヤ教の三大祭りの一つで七週祭のことであります。ユダヤ教の三大祭は他に、過越祭と仮庵祭がありますが、五旬祭は過越祭の安息日の翌日から七週を数えた翌日の50日目に行われます。その日は小麦の収穫の初穂を神に捧げる日でありました。これが後期ユダヤ教の時代になって過越祭に付随する収穫祭的性格を帯び、その後に神がシナイ山でモーセを通じて律法を与えてくださったことを記念する重要な祝祭日となりました。エジプトを脱出したイスラエル民族が「神の民」として召され、礼拝と生活の規範としての律法が与えられたことを感謝し、記念する日となったのです。
 過越祭がイスラエルの民族の誕生であったとするなら、刈入れの祭りである七週祭はイスラエルの精神(宗教)の誕生であったとも言えます。
 この五旬祭の日は、イエス様が復活されて50日目でありました。それゆえ教会は、聖霊が降った事件をペンテコステ(聖霊降臨祭)という名を用いて教会の創立記念日として祝祭にしたのです。
 教会の歴史の初期には、ペンテコステという語句は復活祭と聖霊降臨祭の間の全時期のために用いられていたそうですが、この期間は過ぎ越しの祝いの時期であって、断食はゆるされず、祈りが中心でありました。そしてハレルヤがしばしば歌われたそうであります。

聖霊が降った時のことを使徒言行録はこのように記しています。
 イエス様の弟子たちは、イエス様が天に昇られてからずっと一つになって集まって祈りをささげていたのでしょう。五旬祭の日にも同じようにみんなが一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼等が座っていた家中に響きました。聖霊は彼らが座っていた家全体を満たしました。そして、炎のような舌が分かれ分かれに顕れ、一人一人の上にとどまりました。約束の聖霊が弟子たちに降ったのです。これは聖霊によるバプテスマを彼等が受けたことを現わしています。
 炎のような聖霊を受けた弟子たちは、みな聖霊に満たされました。「風」「炎」「現れ」は旧約では具体的な神顕現の意味として使われています。「風」は「霊」を「舌」は「言葉」を予期させます。
 この時、エルサレムには天下のあらゆる国から来た敬虔なユダヤ人が住んでいましたが、この大きな物音で何事が起こったのかと大勢の人が集まってきました。そして集って来た人々は家にいた人々がそれぞれの国の言葉で話しているのを聞いて非常に驚きました。ガリラヤ人がなぜ自分たちの生まれた国の言葉を知っているのか不思議だったからです。
 5節の「信仰深い」ユダヤ人は、除酵祭から七週祭の期間まで、祝うために集って来た数十万の巡礼者ではなく、元ディアスポラのユダヤ人で戻って来てエルサレムに住んでいた信仰深いユダヤ人とユダヤ教へ改宗した改宗者と推測されます。
 弟子たち一同は聖霊に満たされ、かつてはディアスポラ出身、当時はエルサレム在住のユダヤ人やユダヤ教への改宗者たちに、神の偉大な業を語ったのであります。「異なる言葉で」は他国の言葉という意味です。
 9節以下にはたくさんの地名が書かれていますが、当時の世界全体を示していると思われる地名です。当時の世界中から集った人たちが自分の言葉で理解できる話が語られたということになります。
 イエス様は弟子たちに「地の果てまでもわたしの証人になるであろう」と言われました。ペンテコステの日、聖霊に満たされた使徒たちは、それぞれ外国の言葉で神の力ある業について語り出し、主の復活、主の昇天、そして聖霊降臨を通して、主の証し人として新たな歩みを始め、聖霊の働きによって教会が建て上げられていくことになります。

聖霊についてイエス様が教えてくださったことを思い起こしてみましょう。
 イエス様は、弟子たちに父なる神がパラクレートスを遣わして永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださると言われました。このギリシア語パラクレートスは聖霊を指しており、「助け主」、「慰め主」、「弁護者」と訳されています。
 聖霊が「助け主」と呼ばれるのは、日々の生活すべてにおいて主が共にいてくださり、導いてくださり、必要な力を与えてくださっているからです。
 聖霊が「慰め主」と呼ばれるのは、私たちが様々な苦難、悲しみ、孤独の中にいる時に私たちを守り、慰め、癒し、「御言葉」によって励ましてくださるからです。でも、悲しみ、苦しみの中にいるときは、主が共にいてくださることはわかっていても、悲しみはなかなか消えず、苦しみもあります。しかし、主が支えていてくださるのでそれに耐える力を与えてくださっていることを覚えておきたいと思います。
 聖霊が「弁護者」と呼ばれるのは、私たちが罪を犯した時に、主が執りなしてくださるからです。それらは祈りによってなされていきます。
 そして聖霊は、イエス様を信じることができるように私たちを導き、主に在って私たちを一つにしてくれます。
 ヨハネによる福音書では聖霊は父なる神と共におられるキリストご自身のお働きであると記しています。それはイエス様が、ご自分を信じる者の内に内在していてくださるということであり、イエス様が共にいてくださるということです。
 約束の聖霊は、わたしたちと共におり、わたしたちの内におられます。そして生においても死においても死を越えた生においても神がわたしたちと共におられることを悟らせてくださるのです。
 イエス様は私たちと共にいて今なお聖霊を注ぎ続けてくださり、教会の働きを推し進めておられます。聖霊の働きによって、教会はキリストを頭とする一つの体としてお互いに調和するように整えられ、イエス様から託された使命を果たす力を与えていただくのです。

 

【2026/5/10】「真理の霊」 ヨハネ16:12−14、ロマ8:22−27
                         小河由美子  

本日は、「母の日」です。皆さま、お一人お一人にお母さんとの思い出がおありかと思います。今、自分がここにいるのは、お父さんとお母さんがいたからであり、お母さんのお腹の中から生まれて保護者や養育者によって育てていただいたからであります。今日は各人のお母さんに感謝するとともに、お母さんを与えてくださった神さまに感謝したいと思います。
 私の先輩牧師で、もう既に召されておられる先生ですが、その方は赤ちゃんの頃にお母さんがご病気で亡くなられ、また写真も残っていなかったので、お母さんの顔を知らないのだと「母の日」がくるとおっしゃっていました。せめて写真でも残っていたらどんなにか慰められたかと思うのですが、幼い頃からずっとさみしい思いをされて来られたのだと思います。その先生は中学生の時に教会に導かれイエス様を信じ、洗礼を受けたいとお父さん代わりの長男に言ったらキリスト者になったら勘当すると言われたそうです。でも自分はイエス様を信じて生きていきたいからと家を出て、教会の牧師家庭で牧師の子どもたち共に育てられたそうです。中学を卒業し夜学の高校を出て東京に来て働き、献身へと導かれ牧師になられたそうです。ですからその方にとっては牧師夫人がお母さん代わりになってくださったのでとても牧師夫人には感謝しておられました。
 宗教改革者カルヴァンは、教会を「母なる教会」と呼びました。父なる神と母なる教会の関係です。教会は主イエス・キリストを信じる人々の集まりですが、その教会が母としての役目を担っているのです。教会に集う人々を主の愛で優しく包み込む、そのような大塚平安教会でありたいと願います。そこで私たちの教会を母たらしめるのが聖霊のお働きです。
 ヨハネによる福音書にはイエス様が聖霊を送ってくださること、そして聖霊の働きについて記されています。本日の聖書箇所はイエス様の弟子たちへの告別説教の一部なのですが、イエス様の告別説教は長く、ヨハネ福音書13章31節から17章までが告別説教となっております。その内容を簡単にひろっていきますと、最後の晩餐のあとユダが出ていった後、イエス様は弟子たちにもう少しすると、ご自分が弟子たちの前からいなくなることを告げられ、「互いに愛し合いなさい」という兄弟愛を新しい戒めとして与えられました。
 14章はご自分が父のもとへ去ってゆこうとしていること、またそこには弟子たちのための住むところ、場所を備えていること、イエス様が父に至る道であることを教えられ、イエス様が去った後に、父は「弁護者」として「真理の霊」を遣わされること、そしてイエス様が世が与えることのできない平安を与えてくださることを告げられました。弟子たちにまだ理解できない多くのことがありますが、後から父から送られる「真理の霊」が弟子たちを真理に導き、イエス様が語ったことを思い起こさせると話されました。
 そして15章では、イエス様はご自分を「まことのぶどうの木」にたとえ、再び、弟子たちが「互いに愛し合う」ことを新しい戒めとして語っておられます。その後で、弟子たちがこの世から受けている憎悪と迫害について語り、苦難はあるけれども「弁護者」(聖霊)が弟子たちを導き、イエス様の言葉を深く理解させる役割を果たすと約束されました。
 そして16章12−14では、「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。」とあります。
 このように「真理の霊」(聖霊/弁護者)が、イエス様の教えを人々の心に、解き明かし、真理へと導く働きをするのです。ヨハネ福音書における真理とはイエスご自身のことです。真理の霊と言われる聖霊は、イエス様の言葉や働きを明らかにしてくださり、真理であるイエス様に私たちを結びつけてくださる働きをしてくださるのです。
 このようにしてイエス様との目に見える別れの後も、聖霊を通して真理がキリスト者の中に引き継がれ、信仰が深められていくことになります。
 聖霊の主な働きについては16章8節〜11節に記されています。
 8節「その方が来れば、罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする」とありますように「罪とは、彼らがわたしを信じないこと」と述べておられます。わたしたち人間の最も大きな罪は、真の神を神として信じないことにあります。
 10節「義についてとは、わたしが父のもとへ行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」と記されています。これは、これから後、弟子たちにはイエス様のお姿が見えなくなりますが、このような出来事のうちに神の正しさが示されると述べているのです。自分が正義と思い込んでいることを、神の義を視点として見直すときに、私たちの言動の多くは正義ではない事実に気づかされるということです。
 11節「また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである」と記されています。神でない人間が自らを神とし、そのような存在に自らの忠誠心を捧げること、これが既に裁かれているのだということです。 

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
 イエス様は、悲しみは喜びに変わるとおっしゃいました。
 弟子たちは世の迫害に直面し悲しむが、その悲しみは、出産の痛みが喜びに変わるように、イエス・キリストとの再会(復活・聖霊による共在)によって大きな喜びに変わることを告げておられます。そして祈りの力について言及し、イエス様の名によって父に求めるならば、願うものを受けることができるようになり、喜びが満ちたものとなると約束されています。
 そして弟子たちがイエス様を愛し、イエス様が神から来たことを信じているため、父自身が弟子たちを愛していると保証されています。
 この告別説教は、イエス様との目に見える別れに直面して不安になる弟子たちに対し、聖霊という新しい助け主が来て、神との直接的な関係(祈り)と永続的な喜びをもたらすことを伝えています。聖霊(弁護者)の到来は、そのまま復活の主イエスが天から再臨する出来事であると言えます。
 主イエス・キリストの十字架の出来事の後、神さまはご自身の御心を理解できるようにわたしたちに働きかけてくださっています。
 信仰者の生涯は、父なる神のみもとに帰る途上にあります。その旅路を導いてくださるのはイエス様ですが、聖霊は、わたしたちの心の内側に働かれる神さま(イエス様)のお働きです。父と子と聖霊なる神は一つなる神なのです。

 

【2026/4/5】「キリストの復活」 ヨハネ20:1−18
                         小河由美子  

イースターおめでとうございます。昨日は雨がたくさん降りましたが、今日はイエス様の復活をみんなでお祝いするのにふさわしい良いお天気ですね。
 先週の金曜日は受難日でイエス様が十字架に架けられて死なれた日を覚える日でした。先週の礼拝でイエス様が十字架の上で死なれたときのお話をしましたが、イエス様が死なれたことによって、大きな変化が起きました。神殿の垂れ幕が裂け、神さまと私たちの隔ての壁が取り去られました。異邦人であるローマの百人隊長が、イエス様のことを「本当にこの人は神の子であった」と信仰を告白しました。その信仰告白は、イエス様の救いはすべての人になされたことの証です。そして神の国を待ち望んでいたアリマタヤの出身で身分の高い議員のヨセフが勇気を出してイエス様のご遺体を引き取りたいとピラトに申し出ました。マタイ福音書には、この人は金持ちであったと記されています。アリマタヤのヨセフはイエス様のご遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しいお墓に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去ったとマルコ福音書は記しています。ヨハネ福音書には、彼はイエス様の弟子でしたが、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたと記されています。イエス様が生きておられる間は、イエス様の弟子であることを隠していたのに、イエス様が死なれたことにより、そのことを公にしたのです。何もしなければユダヤ人たちに知られることはなく、これまでと同様に過ごすことができたはずです。にもかかわらず、彼はイエス様の弟子であることを自らの行為によって公に明らかにしたのです。そしてもう一人、人目のつかない夜に密かに、イエス様のもとを訪ねたニコデモも、没薬と沈香を混ぜたものを百リトラばかり持ってきました。1リトラの単位は326グラムですので100リトラというのは32.6キログラムになり、大変な分量です。沈香というのはアラビアのミラル樹脂から分泌する芳香性の樹脂で、薬用に用いられました。他にもユダヤ人の議員の中にはイエス様を信じる人は多かったようですが、ただ、彼らは会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかったこと、彼らは神からの誉れよりも人間からの誉れを好んだことがヨハネ福音書12章43節以下に記されています。しかし、ニコデモはイエス様が死なれたことにより、自分がイエス様を信じていたことを行為によって公に明らかにしました。アリマタヤのヨセフとニコデモは、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えてイエス様のご遺体を亜麻布で包みました。人となられた神は、このようにして地上の生を終えられました。大量の香料と新しい墓という、この葬り方は新しい共同体の主イエス・キリストの王としての葬り方としてヨハネ福音書記者はイエス様がユダヤ人の王に相応しい葬り方をされたことを伝えています。それを伝えることによって、イエス・キリストの十字架による贖いの死は、新しい民族、新しいイスラエルの開始、すなわちイエス・キリストにおいて示され、顕された神以外を、まことの王、救い主としない新しい信仰共同体の始まりであることを告げています。
 そして、聖書はこれからイエス様が生前に予告されていた復活された後のことを語ります。 

いてもたってもいられないとき、なかなか眠れなかったり、眠れたとしても、いつもより早く目が覚めてしまうものです。マグダラのマリアもそうでした。十字架にかけられて死なれたイエス様のお墓に行きたくてまだ暗いうちに家を出たのです。マタイ、マルコ、ルカでは、マグダラのマリアと婦人たちがイエス様のご遺体に防腐処置をするために墓に行ったと書かれていますが、ヨハネ福音書にはマグダラのマリアの名前だけが記され、なぜ彼女がお墓に行ったのかは書かれていません。
 マリアは墓から石が取りのけられてあるのを見て、驚き、すぐにシモン・ペトロとヨハネのところへ走って行き、彼らに「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、私たちにはわかりません」と伝えました。マリアは誰かが死体を運び去ったのだと思ったのです。
 マリアたちの知らせを聞いて、ペトロとヨハネは走って墓に向かいました。先に着いたヨハネが墓をのぞき込むと亜麻布が置いてあるのが見えました。後から来たペトロが墓に入ると、亜麻布がきちんと置いてあるのを見ました。イエス様の頭を包んでいた覆い、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてありました。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じたのです。しかし、この時はまだ「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を理解していなかったのである」と記されています。それから二人は家に帰って行きました。
 二人の弟子が帰った後、マリアは墓の外に立って泣いていました。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエス様の遺体が置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えました。先ほど、ペトロたちがいた時には天使たちはいませんでした。
 泣いているマリアに天使が「婦人よ、なぜ泣いているのか」と問いました。マリアは「私の主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と答えました。この天使の問いはイエス様の問いであります。
 マリアが後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えましたが、しかし、マリアにはそれがイエス様だとは分からなかったと書かれています。イエス様は言われました。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」
 マリアは、敬愛するイエス様の死に遭遇して涙の渇くことがなかったでしょう。イエス様のことが大好きだったから、イエス様のことを思えば思うほど、悲しくて涙が止まらないのです。
 このとき、マリアにはイエス様が見えなかったように、私たちもまた最愛の人を失った、信頼していた人を失った、心の拠り所であった人を失った、そのような辛いときに、いつも励まし見守っていてくださったイエス様のお姿に気づかないことがあります。

 マリアは、声をかけたイエス様を園丁だと思って「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と言いました。このマリアの言葉から、イエス・キリストが復活されたことを、ユダヤ教側は、初期の古文書、文献資料において、園丁か誰かがご遺体を隠したということを流布していたのかもしれないと思われます。当時のローマ側の伝承、歴史資料にも、イエスの弟子たちが盗んだ、隠したとい記録が残されているそうです。それに対してヨハネ福音書は、マリアの「どこに置かれているのか、わたしにはわかりませんと」という正直に答えを皆に伝えていることになります。
 そして、マリアが自分に声をかけてくれている人がイエス様だとわからなかったけれども、イエス様がマリアの名を呼び、彼女がイエス様の方に振り向いたとき、今自分の目の前にいるのがイエス様だとわかったと聖書は告げています。
 ヨハネ福音書に、羊は自分の羊飼いの声を知っている、と書かれています。マリアはイエス様に名前を呼ばれて、自分の名を呼んでくださったお方が誰であるかわかりました。

イエス様を葬ったニコデモが、かつて密かにイエス様のところにやってきて「神の国に入るのにはどうしたらいいか」と尋ねたとき、イエス様は「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と答えられました。それは、人は、新たに生まれなければ、信仰の領域のことはわからないということです。
 イエス様はご自身の十字架の死と復活によって、私たちを新たに生まれさせてくださる私たちの救い主であられます。イエス様はご自分を信じる者に新しい命を与え、神と共に生きる神の子へと新しく生まれ変わらせてくださるお方なのです。イースターの恵みを感謝いたします。


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      (幼稚園と兼用)